2016年5月4日水曜日

疲れていてはいけない

元々走るのは好きじゃないです。中学や高校のマラソン大会、大嫌いだった。持久力がないし、そもそも足が速くない。高校のとき100mは一度だけ12秒台で走れたことがある(たぶん追い風)。1500mはピークでも5分を切れなかったヘタレです。それが今、どうやったら速く走れるか、それもマラソンみたいな長い距離を走り切るにはどうしたらいいか考えています。人間変われば変わるものですね。競技性は二の次で、自分の体調とペースさえ考えていればいいところは性に合ってるのかもしれません。あと、走ってると頭の中が勝手に整理されてくのは好き。

インド駐在当時、サッカーチームの仲間とムンバイマラソンを走ったのは半ば成り行きでしたが、振り返ればあれがきっかけでした。大会当日まで、一度もマラソンの距離を走ったことがなくて、でも10kmを1時間、20kmを2時間で走れることは知っていたので、「42.195kmなら4時間ちょっとでしょー」と、いま思えばたいへん甘い見込みでスタートしたのでした。確かに20km地点まではその位のペースだったのですが、25km過ぎたあたりで突然足(脚)が動かなくなりました。腕も肩も痛い。結局、ゴールはしたもののタイムは5時間。「これがマラソンか…」と、疲労で動かない体を引きずりながら反省したのも良い思い出です。

週末のサッカーとテニスが生活に組み込まれていた駐在時代の体力貯金は帰国後すぐに使い果たし、「これはヤヴァい」と感じるまでに時間はかかりませんでした。引越しを機にジムに通い始めたものの、マッチョになりたいわけでないし(体質的になれない)、他のみなさんがキャッキャウフフ楽しそうなスタジオダンスも興味ない(ぼっち属性すいません)。結局、スタッフのおねいさんとスポーツ歴を雑談するなかで、「じゃあフルマラソンもう一度目指しましょうか」と、ラン中心のメニューを組んでもらいました。何日かメニューを流すと体も慣れて、今は「1時間ラン+ウェイトとストレッチを若干」が体力的に均衡して気持ちいい。

へたれランナーの自分語りが長くなりましたが、本題はここから。

メニューを組んでくれたおねいさんが中長距離の経験者で、「マラソン目指すなら心拍数気にした方がいいですよ」とアドバイスいただきました。素直な私はその日のうちに「心拍計 ランニング」でグーグル先生に問い合わせ。…いっぱいありすぎてよくわからない。海外製が多いですね。日系メーカーならEPSONでしょうか。その時、心拍計の活用方法を紹介しているこちらの記事が目に留まったのですが、内容が素晴らしすぎて、心拍計以外もブログ内のランニングに関する記事はすべて目を通しました。

マラソン・ランニング・陸上競技 | NANA's ESCAPISM

ブログ内の記述から、こちらの方は箱根駅伝の予選会20kmを、1km平均3分20秒くらいで走る中長距離ガチ勢なので、タイムとかペースとか基礎体力とかそういうのは最初から(へたれランナーには)参考にならない。でも、心拍数を客観的に練習に活かすという点はアスリートも一般人も同じなんじゃないかと思いました。ほとんど倍のスピードで走るアスリートも心拍数が一般人の2倍多いわけじゃないですから。いや、似たような心拍数で倍のスピードを出せる身体能力が凄いのか。

心拍数と主観的運動強度の関係の見える化とか、練習以前の準備とか、練習後の栄養摂取とか、参考になることが多すぎて目から鱗が落ちまくるブログなのですが、特に衝撃を受けたのはこちら。

単刀直入に言いましょう。ほとんどのランナーは、疲労を軽視しすぎています。
 「苦しんだ分だけ速くなれる」 という盲信と、「休むと体力が落ちてしまう。疲れていても、走らなければ」 という強迫観念にかられ、知らず知らずのうちに練習をしすぎてしまっているランナーがあまりにも多い。【ランニング】距離信仰に終止符を。9割のランナーが気づかない「落とし穴」【マラソン】

これもうランニングとかマラソンとか関係ないです。人生について何か示唆を得たような気さえしました。

スポーツに限らず仕事でも日常生活でも、満足を何によって得るかというのは主観で、原因から結果までのどこを重視するかは人によって様々です。宝くじのように偶然性や射幸性が高くても当選すればうれしい(outcome重視)、試験勉強のように努力が結果の前提となっているものは合格すれば努力した過程も含めてうれしい(consequence重視)。どっちもうれしいですが、後者の場合、「苦しんだ分だけ速くなれる」あるいは「苦しんだ分だけ速くなれなければ納得できない」という思い込み(盲信)があるように思います。むしろ肉体的にも精神的にも「苦しむ」こと自体が目的=満足になってしまうことがある。

性格的にややマゾヒスティックな部分を自覚している私は、そういう傾向が強いのかもなぁ、マゾヒスティックさが外側に向かったらそりゃサディスティックだよなぁ、今まで周りの人に「苦しむ」ことを押し付けていたかなぁ、などと人知れず反省。さらに、「苦しんだ」結果生じた「疲労」については、その軽重など考えたこともなかったことに気が付きました。放っておけば治ると。

そうじゃない、もっとも重要なことは、”疲労回復に着目すること”なんだ、ということを、武井壮さんの言葉を通してこのブログは教えてくれました。

武井壮も疲れるんだなあ、と感じた1日だったけど、オレの特技はそっから誰よりも早く回復すること だ。。。鍛えるより治す方が時間がかかるんだからよ。。そこを早めりゃ誰より早く辿り着く。。トレーニングの極意はそこにあるよな。。1番強くなるのは1 番速く回復するヤツだ。。勝負は才能じゃねえ!— 武井壮 (@sosotakei) 2015, 5月 25

競技的には、練習量やペースを落とし、練習後に糖質・たんぱく質を十分に摂取することが正解になるわけですが、気持ちの面からグサッときたのはこちら。引用します。

あなたは自身の自覚している実力と実際の自己ベストとの間にギャップがあり、焦りともどかしさを感じているのではないでしょうか。
そこで練習量を増やすことに逃げないでください。一旦落ち着いて、自分自身を俯瞰し、「身体を回復させる」という意識をきちんと持てているか、自分に問いただしてください。
疲労を溜めすぎないようにすることで、自身のコンディションを俯瞰できるようになり、 自分が考える「すべてが上手くかみ合った状態」を自らの意思で作り出せるようになります。
そして結果として、「自分が感じている実力」の通りの タイムでマラソンを走れるようになるのです。【ランニング】距離信仰に終止符を。9割のランナーが気づかない「落とし穴」【マラソン】


人生をマラソンに喩える方が一定数いらっしゃるのが体感として理解できました。それだけトシをとったということでしょうか。実年齢的にはそろそろですが、「不惑」まで何と遠いことか。

実力と自己ベストのギャップへの焦り、練習量を増やすことへの逃げ、回復させることへの無頓着…。ランニングを始めた時は、こういった一般論に気づかされるとは想像もしていませんでした。気づいたら当たり前ですが、仕事もプライベートも疲れていたら良いパフォーマンスなど出せるわけないのですね。このブログにたどり着いたことだけでも、ランニングを始めて良かったと思います。より速く走るために、これからは回復重視。疲れていてはいけない、そう思いました。今日は休日、20km走れたらいいなと思いつつ。

p.s.
心拍計は、新機種が出て型落ちして安くなっていたGARMINのForeAthlete® 225Jにしました。ウェブ上に走行データを取り込めるソフトウェアが秀逸ですね。どこをどのくらいのペースでどのくらいの心拍数で走ったかがチャートで見れて、ビジュアル的にすごくわかりやすいです。

2016年3月1日火曜日

【映画メモ】THE HATEFUL EIGHT

一日(ついたち)なので映画を見てきましたよっと。



バイオレンスですわー、R18ですわー

北野武「アウトレイジ」も(「アウトレイジ2」も)たいがいでしたけど、これは好き嫌い分かれますね。心臓弱い方にはまったくおすすめしません。あと、デートにもおすすめしません。わたしは大好きです

見終わった後、「映画を見た」というより、「タランティーノを見た」 という以外に表現しようのない感慨がジワジワきて、2時間半かけていい感じに頭のネジを外してくれたのを実感できました。他の監督の映画と脳みその使う部位が違うような気がするんですよね。上映時間中の脳の血流の違いを調べたら面白いんじゃないかなぁ。

終盤の30分くらいテンション高い時間が長くて、次に何が起こるか分からなくて気が抜けなくて、見終わったら心臓も脳みそもヘトヘトでした。ほんと疲れた。火曜日なのに。日経新聞の映画評にも書いてありましたが、「西部劇版レザボアドッグス」で間違ってないです。あの倉庫の中の緊張感が、吹雪に閉ざされた山小屋に移って。本作でアカデミー助演女優賞ノミネートのジェニファー・ジェイソン・リーはキーパーソンですが、基本、男臭い。ま、脚本がタランティーノなら性別も時代も関係なく、あのテンションで引っ張ってくれるんだと思います。

見どころには、70mmというパノラマ撮影用のフィルムを使って広角に撮影してることとか、雪山と吹雪をCGほとんど使ってないとか、あと、アカデミー作曲賞のテーマ曲とかいろいろあるんだと思いますが、それもタランティーノの脚本とエッセンスの台詞回しがなければ成り立たないことなので、脚本と台詞回しを可能にする、吹雪の山小屋を舞台装置に選んだ時点で成功は見えていたように思えます。そういう意味では、時代背景になっている南北戦争前後のゴタゴタや、各人が抱えるバイストーリーも、あってもなくても舞台装置の頑健さは変わらない。タランティーノが西部劇好きというの割り引けば、ライフルとピストル振り回すことの不自然ささえなければ現代でも良かったんでしょうね。

見ながらも見終わった後も、唯一残念だなと思ったのは、レザボア・ドッグスやパルプフィクションを初めて見た時の衝撃はもう味わえないという、自分に対するガッカリ感でしたとさ。

2016年2月16日火曜日

【読書メモ】空海、課金システム、言語ゲーム、レザボア・ドッグス

空海/髙村薫(2015)



昨年の本です。読みながら散発的に頭に浮かんだことをメモしました。ほぼ空海と関係ありません。

文化庁の宗教年鑑によると、全国の仏教系信者数は約8千7百万人だそうです。対して、神道系信者数は約9千1百万人。合計したら日本の総人口を軽く超えてしまいます。神仏習合の結果、日本人の大半が「どこかの神社の氏子、かつ、どこかの寺の檀家」となっていることが、統計からもわかります。私の実家も浄土宗の檀家ですが、神社に至っては、何系統の氏子かすら知りません。たぶん伊勢神宮(神社本庁)系統でしょう。初詣には、だいたい毎年、家族で近所の氏神様にお参りします。葬式には坊さんが来ます。

これは、「たぶん」「だいたい」などという、いい加減な宗教態度をとっている人間がこの読書メモを書いているんだ、というお断りです。宗教は絡まれると後がめんどくさいからね。もっとも、その「いい加減な宗教態度」が標準的日本人の特徴であると確信しているからこそ、こういったメモも書けるのですが。


課金システム

いきなり空海から脱線しますが、この「いい加減さ」を経済的に上手いこと利用してる例が伊勢神宮(神社本庁)だと思ったんですね。よそ者として都会で暮らしていていると忘れがちですが、自治会組織が維持されている地域なら、自治会費の集金が月単位であるはずです。その中の一部、たぶん額にしたら一世帯でせいぜい数百円とかが、地域の氏神様を運営する主体を経由して、最終的に伊勢神宮への「上納金」に仕上がる。なんのことはない、「みかじめ料」、あるいは「ショバ代」なわけですが、あれほどナチュラルに地域生活に溶け込んだ集金マシーンを他に知りません。税金と違って法の強制力なんて何もないんですよ。でも多くの世帯が払う。「何に」お金を払ってるか分かっていない方も多いことでしょう。日本全国でいったどれほどのアガリがあるのか。銀行や証券会社の宗教法人担当でその筋にお詳しい方、RSVP。いや、冗談です。

この仕組みがけしからんということではなくて、宗教法人にお金を吸い上げるなら、何だかわからないまま少額を継続的に、かつ広い裾野から集金できる自治会費方式が、課金システムとして最強だということを指摘しました。そしてこの課金システムに組み込まれているサイレント・マジョリティこそ、この国の真の保守層とほぼイコールなのだろうと。自治会の成り立ちは、高度成長期のベッドタウンなのか、隣組なのか、あるいは庚申講宗門改めまで遡れるのか、起源はなんでもいいです。大切なのは、地域の基層をなす人々が、動機はさておき自発的にお金を納め続けているという事実。人口が東京に一極集中する21世紀でも、この課金システムが維持されているという事実。真の保守とは自分が保守である自覚すらない、このような課金システムに組み込まれている人々のことを言うのでしょう。

そういう意味では、コリアタウンあたりでヘイトスピーチを垂れ流してる自称右翼なんて、ちっとも保守ではないですね。彼らの何割が自治会費を通じてみかじめ料を納めることの重さを理解しているのか。地元の成人式で暴れて、パチ屋に朝から行列してるヤンキーの方がなんぼか保守ですよ。いずれ歳を取り地縁の中に吸収され、親から代替わりして自治会費を納めるようになる(たぶん)。現在の形での神社本庁の課金システムに、それほど歴史があるとは思えませんが、課金システムの存続を担保しているのは、氏子かつ檀家といういい加減な宗教的態度をとりつつ、同時に無意識な保守性も持っている、地域の基層をなす人々だった、というお話でした。ヤンキー最強伝説。と言いつつ、私も実家を出てから20年以上、自治会組織にお金を納めたことはなかったです。えらいすんません。

「空海」の中で髙村さんが徹底していたのは、空海以前から存在し、空海が生きた時代にも存在し、そして空海入滅後にも存在した、この国の基層をなす人々に考えを巡らすこと。つまり、日本人の国民性を考えること。描かれているのは、いかなる政治勢力が支配的であろうとも、いかなる宗教・宗派が流行しようとも、基層をなす人々が支配や信仰を生活の中に受け入れた様子。そういう視点で読むと、空海の物語とは別の面白さが本書にはあると思います。ただ、髙村さんは「だから日本人はこういう国民性なんだ」という結論は最後まで示してくれません。それどころか、「千二百年前の日本人は、一言で言えば今日とはかけ離れた常識や価値観、世界観をもって暮らしていたのであり、私たちのものの見方では測れないと考えた方がよい。」とある種、現代との断絶を主張します。

それは違う、と思いました。あなたが本書の中で手繰り寄せ、綴っているそれが、日本人の国民性であり、常識・価値観・世界観の集合体そのものじゃないか、と。ほんとうに断絶しているなら、文化や歴史として何も残らず、「最初から存在しなかったこと」にされてしまったはずなんですね。しかし、様式は変化しているかもしれないけれど、初詣も葬式も課金システムも、現代も有効に機能している事実がある。それらの機能の末端に無意識的にでも関わっているならば、歴史という時間の連続体の末端においても、常識・価値観・世界観レヴェルで緩やかに連なっている、と考えるのが自然だと思うのです。

しかし髙村さんは積極的にそこを明らかにしてくれていないので、 現代人の中にあるかもしれない空海の時代から連続する何か、を求めながら読むと、本書はやや肩すかしを食うと思います。本書がウェブ連載を元にしていることが原因かもしれませんが、オウム真理教信者の後日談やハンセン病患者の方々の信仰に言及する章が突然現れて、すごくブツ切り感を感じました。それ自体はとても内容のある章なのですが、空海の現代に連なる物語の末端に位置付けるには、個別性が強すぎる。

逆に、歴史という連続体の中で、特に「地域の基層をなす」現代人の意識に、空海が何を残したのか探ることは、読者に残された宿題ということでいいのかな、とも思います。髙村さんが何度もキーワードとして挙げている、密教的な身体感覚を読者は求められているのかもしれません。「考えるな、感じろ」と・笑


言語ゲーム

宗教には教義がある。では、その教義はどのようにもたらされたのか。本書では原初仏教の教義ではなく、空海=真言宗の教義が成立する土台として、仏教以前に心と体が不分離である身体感覚が、日本人に元々備わっていることを指摘しています。苦行により特別な霊力を得られるという、修験道的な身体感覚ですね。滝に打たれたりするやつ。個人の身体感覚であるがゆえ、他人が追体験することも、本人が言葉で言い表すこともできない。言葉にできないけれども、修行の結果、神秘的な体験をしたことは事実であると。しかも、そのような体験が存在するということについて、体験しようがしまいが、 空海と空海以外の人間の間に共通理解がある。

で、これ何かに似てるなぁと考えて思いついたのは、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム。後期ウィトゲンシュタインでいいんですかね。「語りえず、示される」というやつ。哲学方面にまったく素養がないので、素人の戯言と思ったら読み飛ばしてください。神秘的体験というと宗教がかってきますが、滝に打たれたりしなくても、なんらかの体験が個人にしか帰属しないのは当たり前です。そして「悟り」もまた個人的体験。仏教では宗派によらず悟りがひとつの到達点なので、 「個人が何をすれば悟りの境地に至るか」は大問題なわけですが、空海がすごかったのは、悟りを開くまで途方もない時間が必要としていた当時主流の顕教に対し、「密教では、いま生きているままで悟りが開ける」、すなわち「即身成仏」を、あの手この手で言い切ってしまったところです。

これのどこが言語ゲームかというと、 「A.理屈で言い表せない超自然的な感覚=神秘的体験が存在する」、という文化的共通理解を前提として、「B.身体体験によって世界の発生原理と体系を明らかにできる=悟りに到達できる」という二階建てのBの部分です。Aについて、「それはアニミズム的感覚ですね」とか「そのような慣習を生きているんですね」というような解説を外側から与えることはできません。なぜならば、Bという言語ゲームの主体=空海や空海に教えを乞う当時の人々が、アニミズムや慣習の存在を意識しないことこそが、Bで用いられる言葉の用法や慣用、つまり言語ゲームの規則を初めて成立させるからです。逆に言えば、自らが拠って立つ文化・社会的背景や慣習を外側から眺める視点を持った瞬間、Bの言語ゲーム、すなわち、密教的悟りに到達することは困難になる、というのが私の理解です。AとBをつなぐ「という文化的共通理解を前提として」の部分は、Bの言語ゲームを成立させるためには、「語りえない」ものでなくてはならない。

正直に言うと、空海(真言宗)の教義にそれほど興味があるわけではないです。髙村さんの「空海」も、前半で多くのページを割いている教義部分は斜め読みでした。ただ、空海がたどった道筋を、千年以上後の、しかも仏教となんの関わりもないオーストリアの哲学者が考えた枠組みで捉えることができるのは、純粋に面白いなと。

日本だけでなく、密教が発達した地域では、程度の差はあっても、仏教以前に自然信仰や呪術信仰がすでに支配的だったのだと思います。 空海はその土台に、本人も意識することなく、上手いこと乗っかった世紀のプロモーターだったのではないか、というのが本書を読んだ私の見立てです。


レザボア・ドッグス

クエンテイン・タランティーノは、90年代映画界で、疑いようもなくひとつの革命でした。少なくとも私の周りでは、「タランティーノを知ってる俺わかってる」という風潮ができあがっていた。タランティーノを世に知らしめたのは『レザボア・ドッグス』。その主題歌がこちら、ジョージ・ベイカー『リトル・グリーン・バッグ』。




レザボア・ドッグス以外でも、テレビCMに使われたりして、耳に残っている方もいると思います。オリジナルは1969年で、欧米のチャートで上位入りしたようです。でもね、タランティーノがレザボア・ドッグスに使わなかったら、日本でこの曲を知ってる人ってそんなに多くなかったんじゃないかと思うんですね。ジョージ・ベイカーのwikiによると、日本国内での使用はすべてレザボア・ドッグスより後なので、当時レザボア・ドッグスに衝撃を受けつつ、「あ、この曲いい」と思った広告代理店や番組制作会社の方が、後になって使ったんじゃないか、という推測。そんなことを、髙村さんの「空海」を読みながらふと思いました。

ここで指摘したいアナロジーは、空海がタランティーノで、密教がリトル・グリーン・バッグという見立てです。欧米ではそこそこ知られた楽曲も、タランティーノがいなかったら日本で多くの人の耳に入ることはなかった。同様に、大陸ではそこそこ知られた密教も、キュレーター空海が西安で恵果に出会わなかったら、その後の日本で隆盛を誇ることはなかった。最初に思い浮かんだのが、「もしもタランティーノがリトル・グリーン・バッグをレザボア・ドッグスに使わなかったら」、というパラレルワールドだったというだけで、同じ文脈で、「もしもエリック・クラプトンがチェンジ・ザ・ワールドをカバーしなかったら」、とかね。まあ、具体的なアナロジーはなんでもいいです。

情報が飽和したたインターネット時代の現代と違い、平安期、あるいは唐の時代に、質の高いコンテンツと巨大な才能が出会える確率ってすごく低かったと思うんですね。空海がいなくても、いつかは密教って日本に伝わったのかもしれないけれど、川崎大師も西新井大師も成田山新勝寺も存在しないその後の日本は、ちょっと想像しにくい。人口や情報の密度が薄い状態での条件分岐って、その後のパラレルワールドの隙間がものすごく広く感じられます。というのが、キュレーターとしての空海の役割に着目した時の感想でした。

その他、着目の仕方によって、空海のいろんな姿が捉えられていて、この本はいいなと思いました。例えば以下のような感じです:

グレート・パフォーマー
宮中で短期間での栄達を可能にした国家鎮護のための加持祈祷。人々の面前で 壮麗な手つきで護摩を焚き、その名人芸で人々を魅了した、というのが髙村さんの見立て。その場限りのライヴ感覚とも言えると思います。

ディベーター・政治家・官僚
真言密教の優位性を確立するための周到な根回しと仕掛け作り、いま風に言うなら、マウンティングが実に上手い。身体体験を手掛かりに、真言密教が仏教他宗派の「上位互換」であることを宣言する。このあたり、ユダヤ教とキリスト教の弱点を見切ってイスラム教を打ち立てたムハンマドの戦略にも通じると思いました。偉大な宗教家の共通点は弁が立つこと。

プロモーター・マーケター
空海が多用した曼荼羅は、密教に必須の儀礼をパッケージにして「見える化 」した優れたマーケティングツール。五感、特に視覚に訴えることは大衆教化に効果的。さらに、教義が大衆には難解であると思えば、噛み砕いたお伽噺も辞さない柔軟な姿勢。このあたりはプロモーター空海の、マーケティング対象に向き合う際の徹底したプラグマティズムと捉えることができると思います。

あと、「コンテンツとしての空海」というのもあります。空海の足跡に由来する寺社は東日本にも多いですが、残念ながら史実ではない。でも、そう信じることに当時から意味と価値があった。空海というブランドを使えば、橋を架けたり井戸を掘る資金がお布施という名で集まる。つまり、国家財政がひっ迫している時には、サプライサイドのファイナンス要請にも引っ張り出せる便利コンテンツが空海だった、と言えます。西新井大師の「弘法大師が掘った井戸」なんかは、「空海の名の下に集めた資金で実施した公共事業で掘った井戸」というのが近いんじゃないでしょうか。

以上は、髙村さんがそう書いているのではなくて、髙村さんが描く空海像を読んで感じた、現代に置き換えたらこういう機能なんだろうな、という私の解釈でした。


おわりに

まだメモしたいことはあるのですが、だらだらしてしまうのでここで切ります。空海の死後、真言宗は天台宗や念仏宗にあっさり主流を奪われたあたり、オーナー社長の後継者育成は大事だよね、とか、鉄鼠の檻で殺人事件の鍵になる日本に存在しないはずの漸悟禅の宗派は空海に由来するんだったなとか。まあでも、一番書きたかった言語ゲームのところは書けたからいいや。

悟りを得ると謂わば日頃なかりつるかと覚ゆ。悟り来たれりと言わば日頃いずこありけるぞと覚ゆ。悟りになれりと謂わば悟りに始めありきと覚ゆ。

 らしいです。(了)

2014年1月15日水曜日

【読書メモ】思考・論理・分析-「正しく考え、正しく分かること」の理論と実践


所謂ロジカルシンキング、クリティカルシンキング本。類書の中でも名著に出会えたと確信している。通読をお勧めするが、第3章「分析」だけでも「正しい分析方法」の概要が把握できる。



タイトルのとおり、思考とは何か、論理とは何か、分析とは何か、を認識に立ち返って、くどいほど基礎から、ただし形式論理学的に記号で論を進めるのではなく、「思考」「論理」「分析」などの単語の意味定義を日常レベルの言葉で固めながら、丁寧に積み上げて解説している。途中に簡単な例示をいくつも織り込んでおり、単なる理論体系ではなく具体的なイメージを伴って理解できる。このため、思考・論理・分析のメカニズムを明らかにするという本書の本質的価値以外に、職業人としてのプロフェッショナル領域にかかわらず、あるいは自然科学、社会科学、人文科学といった学問分野を問わず、より広い読者の理解を促す仕組みとしても良書である。



 この本はおそらく、手に取る人の学問的あるいは職業的バックグラウンドによって、「本書の何がすごいのか」の感じ方が異なる。実践的なテクニックが役に立つ場合もあるだろうが、それよりも高く評価したいのは「正しい思考・論理・分析とは何か」、「正しい思考・論理・分析ができることの限界はどこか」を極めてクリアに言語化している点である。本書が示す手順に沿って思考・論理・分析の訓練も可能なので、その意味では実践向きであるが、その基礎となる広範な理論を、たかだか二百数十頁にまとめ切ったことに著者の力量を感じる。



ちなみに私は、社会科学系学部の出身で、社会人として10年強の実務経験がある。帰納法や集合論を少なくとも概要として理解できる程度の訓練を積んでおり(それらは受験や期末試験のためだったかもしれないが)、実務経験の中では日常的に「思考」し、「論理」を立て、「分析」を行ってきた。以下、これを踏まえた要約と感想である。




本書は第1章「思考」、第2章「論理」、第3章「分析」に分かれている。実務経験者の立場からすると、思考より論理、論理より分析の章に進むにつれて「なるほど」と感じる頻度が高くなった。この「なるほど」は学問的には目の前がパッと開ける快感の瞬間で、職業人的には、「今までの『思考』はこの側面が曖昧だった」という反省の瞬間であり、「あの時の『分析』は結果的に正しい方法でなされていた」という、実務にひきつけた確認の瞬間でもある。



現在進行形で実務を抱えている場合、本書が説く意味で「正しく」考えていようがいまいが、株価や金利や為替レートは刻々と変化するし、取引相手との交渉期限は迫っているし、決裁のため稟議書も規定に則って仕上げなくてはならない。

「正しく」考える技術は、本書に沿ってレベルアップ可能だが、「正しい」思考・論理・分析を十分に用いるためには、現実の要請から逆算した早期の準備が必須であることも、本書を通して改めて得た気付きのひとつであった。第3章では、分析の中で情報収集と構造化やメッセージの抽出それぞれに費やすのに妥当な時間割合を示している。当たり前だが、制限時間内に可能な限り「正しく」結論までたどり着かなければ、実務に携わる職業人としては失格である。この点は自戒もこめて気持ちを新たにしたい。




閑話休題




1章「思考」では、思考の本質は「事象の識別」と「事象間の関係性の把握」であることを示している。前者については、技術的には①ディメンジョンの統一、②クライテリアの設定、③MECEであること、を3要件とし、これらを満たせば「正しく」「事象の識別」が可能というのは、論理・分析の準備段階として極めてエッセンシャルである。実務ではおそらく、時間の経過とともに考慮すべきディメンジョンが別次元に移行し、クライテリアの要請も変わり、MECEでなければ想定外の事象が発生しやすくなる。より直感的には、同章中の「分かることは分けること」という表現が、やや定義不足ながら概念的な指針として機能するのではないか。また後者は、相関と因果関係の峻別など、統計学でよく指摘される留意点の確認。



2章「論理」は、演繹法と帰納法を論理展開の方法論として比較し、「分析」に向かう準備として、実証科学的である帰納法を用いる上の、言わば"お作法"を確認する。このあたりから例示もアナロジーとして実務にひきつけて考えやすくなっている。法規制の適用判断のような大命題からの論理展開(つまり演繹法)が必要とされる局面を除けば、実務上の「分析」はほとんど帰納法に頼っているため、「正しく」帰納法を用いるためのサンプリング方法や納得性の高い共通事項の抽出方法をまず明示。その上で客観的「正しさ」を担保する必要条件と十分条件をロジックとファクトに求め、「分析」に至る準備が完了する。(ここまで我慢して読めば、ようやく楽しい(笑)「分析」に入れます。)



実は第3章「分析」自体は、少なくとも私にとって、前の二つの章ほど技術的に得るものは多くなかった。しかし、「なるほど」の回数は多い。これはどういうことかと言うと、十数年実務に携わっていれば、情報収集→定性定量分析→プレゼンテーション、というサイクルは何度となく繰り返しているため、本書が説く「正しさ」を考える前に、統計分析にしてもチャート作成にしても、習い性で手が動く状態だったからである。

いま思えば、評価された分析やプレゼンテーションは、結果として「正しい」分析方法に基づいていた。すなわち、「情報収集と分析のバランスが良く」、「分析対象の構成要素の関係性を踏まえた構造化がなされ」、「分析から導いたメッセージは規則性と変化を的確に表し」、かつ、「結論が合目的的」だったと言える。方法論としての確証なく十数年間「分析」してきたことが、ある時は「正しく」ある時は「正しくなった」ことがクリアに言語化され、ゆえに「なるほど!」が多かったのである。



3章のもうひとつのテーマに、イシューの設定→イシューツリーの作成→仮説の検証、という流れから結論を導く「イシューアナリシス」がある。たとえば経営分析あれば、マーケティングの4C4P、あるいはSWOTのようなフレームワーク分析が汎用性の高さから使用頻度は高い。ただし、ここが「正しい」分析の限界であるが、イシューの設定自体からは恣意性は排除し切れない

これは私の考えだが、いたずらにフレームワークを多用するよりも、前述の分析のための基礎を理解し身に付けたうえで、イシュー設定に確信が持てるよう経験を蓄積すること、イシュー設定のためにどこまでも深く考え抜くことが、遠回りでもアウトプットの質を高めることになるのではないか。そのような実力がつく頃には、フレームワークの適切な使いどころも学習できているはずである。
 

「おわりに」で本書は以下のように述べている。



優れた論理的思考能力が身につくと、多少オーバーな表現をするならば、見える景色が違ってくる



確かに、本書を読み、これまで曖昧だった部分がクリアになったことで、違った景色が少し見えたように思う。一方で、違った景色をもっと見たいと思う反面、どうすれば他者に違った景色を見せることができるのかを考えずにはいられない。

本書に述べられていない現実の困難のひとつに、「分析」結果を需要者(顧客かもしれないし上司かもしれない)に「理解してもらう」というプロセスがあり、その解決法は「本書を読んでもらい、同じように思考・論理・分析を理解してもらう」ではないはずである。本書が名著であることに疑問の余地はないが、職業人としては、本書が説く「正しさ」を自由に使いこなしたいと望むと同時に、「正しい分析」結果を需要者に「理解してもらう」ことのハードルの高さも意識させられた一冊だった。

2013年5月21日火曜日

インドの経済統計


経済レポートの作り方


日本にいる時に見えていたインド経済の情報は、専ら証券会社などのアジア各国分析レポートの一部としてでした。セルサイドの証券会社のレポートですので、バイサイド顧客のニーズがなければ基本的にレポートにはならない。この意味で、資本・外貨流入規制が強く、日本人資産のエクスポージャーが他の先進国や新興国と比べ相対的に小さいインドの情報は、日本人にとって非常に限定的だったと言えます。むしろ、先日のエントリーのような基礎的な情報は、公的機関が集約したものがよくまとまっている印象。

レポートを出している公的機関でも証券会社でも、 必ずしも現地に人を派遣しているとは限りません。レポートを出している証券会社であっても、インドをカバーしている方はシンガポール在住だったりします。ではどうやって情報を集めているのか?

答えはそう、インターネットです。公的機関であれ企業であれ、情報はすべからくウェブサイト経由で公開すべし、というのは21世紀の常識。そして重要なのは情報の収集ではなく分析。米国中央情報局(CIA)でも人員の大半は(スパイ活動ではなく)公開情報の分析に携わっているのは有名なお話です。溢れる情報をどのように整理して解釈して役立つ情報として加工するか、というノウハウが情報収集よりもはるかに重要です。もちろんこれは、インドに限ったことではありません。



リンク集


その意味で、以下のリンク集は価値のあるものではありません。インドの市場や経済を分析しようと思ったら、誰もが一通り閲覧するサイトばかりと思います。それでもリンク集をつくるのは、まとまっていたら私自身が便利だからです。ですので、初回エントリー以降も、気づいた情報ソースのリンクは増やしてゆきます。

国外から見たインド経済


IMF World Economic Outlook Reports (WEO)春と秋に公開される国際通貨基金のレポート(直近リリースは2013年4月)。権威だったら世界一の経済レポート。内容によってはリリース直後に市場を動かすことも。このレポートがどこからデータを取得しているかを知ること自体に価値がある。データのダウンロード可能。同じくIMFサイト内のeLibraryで、Directions of Trade Statistics (DOT)International Financial Statistics (IFS)などが利用可能。

ADB Key Indicators for Asia and the Pacific
アジア開発銀行の年次統計。

The World Bank World Development Indicators
世界銀行の年次統計。

BIS Consolidated Banking Statistics
国際決済銀行の国際(クロスボーダー)与信残高データ。


国内の統計


Ministry of Statistics and Programme Implementation
統計事業実施省(という訳でいいんでしょうか?)。国勢調査を含め、様々なデータがある。余談ですが、インドは大臣の数がすごく多くて、 正規の(?)大臣だけで30名以上、大臣と名のつく方は80名くらいいます。統計事業実施省は日本だったら総務省の外局くらいのイメージでしょうね。

Ministry of Home Affairs
内務省のサイト。人口統計。

Ministry of Finance
財務省のサイト。経済白書。財政。

Reserve Bank of India
泣く子もだまるインド準備銀行(中央銀行)。一般的に中央銀行が所管する資金統計の他、SNA、物価、国際収支、外国為替、国債管理など、RBIが公表するデータの理解なくしてインド経済は語れません。

インド自動車工業会のサイト。自動車販売台数の元となるレポートを公表。

中央電気局のサイト。電力需要や消費量は鉱業生産などの代理変数として有効。

石油天然ガス省のサイト。油田などの資源を持たないインドにとって、原油価格や石油製品の需給動向は川下にあたる生産・消費を占う上の鍵。

証券取引委員会のサイト。適格外国投資家(FII)の株式投資フローや最近育成に力を入れ始めた社債市場の取引状況など。

ボンベイ(ムンバイ)証券取引所のサイト。


おまけ:学術論文


以上のリンクをぺたぺた貼る過程で、インドの統計に関してすごくよく調べている龍谷大の児玉さんという方の論文を見つけたので、こちらもリンクを貼っておきます。ここまで調べ上げる根性はないなぁ…
インド統計資料を用いたデータセットの構築(PDF)


さて、これらのリンクをたぐるだけなら日本にいても情報収集+分析はできてしまいます。実際、日本在住の海外担当エコノミストの方々は、年に数回の出張を除けば、そういったスタイルなのではないかと思います。

では、現地に赴任することにどんな意味があるのか? 実は私自身、現地=ムンバイにいることの付加価値を完全には理解できていません。もちろん、ビジネス上の意思決定やコラボの迅速化・効率化を目指すのは当然なのですが、生身の人間と顔を合わせて得るもの、街角景気を体感することなど、 言葉にしにくい付加価値がどこかにあるようにも思えます。数年の赴任期間で、少しずつ理解できればいいと考えています。



本日の一枚

自宅近くで夕方になると開かれる路上八百屋。彩りがキレイ。

2013年4月28日日曜日

米がなくても喰ってゆけます。

よしながふみの食べ物系漫画は、「愛がなくても喰ってゆけます。」が食事場面の臨場感があって面白かったですね。紹介されていたお店は何軒かデートで使(以下自主規制)

ムンバイ食事事情


ムンバイ赴任前、周りのみなさんが最も心配してくださったこと、それは食事(もちろんそれ以外もありますが)。味とかそういうことじゃなくて、正露丸のお世話になるとかそっちの意味で。ですが、赴任して2週間が経過したところで、幸いまだ(?)おなかは壊していません。

「ご飯かパンか」みたいな選択肢でも、パン派の私は日本のお米(モチモチしているジャポニカ米。当地では基本的にパサパサしているインディカ米しか手に入らない)がなくても割と平気なので、「白いご飯が食べたい!」みたいな欲求はないです。食事は美味しいに越したことはないですが、元々食に対する許容範囲が広いのかもしれません。

現在、単身でホテルのレジデンス棟(キッチンや洗濯機がついている)住まいですが、幸い近隣がキリスト教徒の居住区で、意外にも、肉も含めて食材の入手は比較的容易です。何かの理由で買い出しができない場合も、ホテルに頼んでパンや牛乳(ロングライフ※しかありませんが)の入手もできるようです。
 ※生産流通段階でインフラ整備が遅れているインドでは、今日搾った牛乳を明日食卓に届けるということができません。そのため、未開封の状態なら常温で数ヶ月保存可能な滅菌加工されたパックが主流で、これはヨーグルトも同じ。乳製品好きの方にはつらい環境かも。ただし、チーズは割と豊富にあります。

朝食

パンや温野菜を食べるだけでおもしろくないので省略。(でもわりと量は食べる)

昼食

オフィスのインド人女性に聞いたところ、インドはお弁当文化だそうです。なので自宅で作って持ってくる人が多い。駐在員でも家族帯同の方の中にはお弁当持参の方もいるようです。私は近所のケータリングを注文するのが定着しました。自分で買いに行ってもいいのかもしれませんが配達が一般的なようです。小さな違いかもしれませんが、こういったところに人件費の差(=サービス産業の生産性格差)を感じます

Indian Lunch
その名もインディアンランチ
「○○ランチ」みたいのを注文すると、だいたい写真のような組み合わせが紙袋に入って届けられます(食器類はオフィスの備品)。カレー+ライス+ナン(と思っているだけで別の名称かも)+野菜(生か茹でてあるのかよくわからない)+ピクルス、これがデフォルト。右上の白いスープはビニル袋に入って届くのですが、実はなんなのかよく分かっていません。酸っぱいです。セットで200ルピー(400円弱)くらい。

メニューを見ても味も食材もわからないものばかりなので(インド人の同僚も知らないものが多い)、ランチは毎日スリリングで楽しいですよ。ワイルドだろぉ〜?

…。正味の話、味は美味しいです。写真のカレーも見た目ほど辛くなく、魚介系の出汁がよく効いたスープカレーでした。カレーのほか、私の知識ではナシゴレンミーゴレンに見えるサムシングが、「Chinese〜」の名前でメニュー載っています。唯一はっきりしているのは、メニューの横に必ず「Veg(ベジタリアン用)/Non-Veg(ノンベジタリアン用)」が記載されていること。さすがベジタリアン天国インド。

夕食

食べません。写真のものはそうでもないですが、こちらのケータリングのランチはけっこうなボリュームがあります。インドの習慣では昼食は13時からというのと、赴任後の環境の変化も影響していたかもしれませんが、少なくとも過去2週間、夜までおなかが空いたことがありません。飲み会があった日以外、平日の夜はまだ食事をしたことがありません。食事はおなかが空いたら摂るものだと、おばあちゃんも言ってましたし


日本との生活環境の違い


夕食を意図的に摂らないのには、体調管理上の理由があります。これは途上国赴任者は概ね似た環境だと思いますが、通勤は基本的に車で移動します。そうすると、歩くことさえなく一日が過ぎてゆきます。これは太るこれはヤバい。東京では気がつきませんでしたが、朝晩の電車通勤は、それなりにカロリーを消費していたようです。

それほど積極的にスポーツなどするタイプではないのですが、少なくとも赴任期間中は体を動かすことが必要なようです。先週、赴任荷物として航空便で送ったスポーツウェアなどが届きました。通勤は車で移動するのに、汗を流すためにホテルに閉じこもることに若干のいびつさを感じますが、夕食時におなかが空く程度には体を動かしたいと思います。



本日のもう一枚

ムンバイ南部のGirgaonという地域にある革製品を扱うお店で、色合いに魅かれてサンダルを購入。お値段640ルピー(1,200円くらい)。ものによりますが、円の購買力はルピーの2倍〜5、6倍くらいあるように感じます。ただし、ホテルのレストランのように先進国と同水準のサービスを求める場合は相応の値段です。輸入された日本の加工食品(キューピーのマヨネーズとかブルドッグソースとか、明らかに日本人しか買わないもの)は、日本の価格の1.5〜2倍します。

2013年4月22日月曜日

ムトゥ 踊るインド経済(1)


ムンバイ赴任前に知っていたこと


ダニー・ボイル監督のスラムドッグ$ミリオネア(原題: Slumdog Millionaire)は、ムンバイのスラム街で生まれ育った少年が、その過酷な生い立ちの中で身に付けた知識で、大金のかかったクイズ番組を勝ち抜く様子を、発展著しいムンバイの街並とともに描写し、2009年のアカデミー作品賞などに輝きました。とても好きな映画のひとつです。もっとも、この映画を見たときは、まさか自分がムンバイに駐在することになるとは夢にも思っていませんでしたが

ムンバイ赴任前、私は株式や債券に投資する仕事を東京でしていました。その間、ムンバイにも出張で訪れたことがあるので、今回の赴任が初めてのインドではありません。ただ、当時の関心対象はもっぱら市場や経済で、出張も短期間で証券会社などを訪問しただけでしたから、インド社会に対するイメージは「スラムドッグ〜」程度の認識しかありませんでした。

現時点で、インドに入国してから一週間が経過しました。たかだか一週間ですが、私のインド、あるいはムンバイに対する認識はずいぶん変わったように思います。何を見て、何を聞いて、どのように変わったかは、別のエントリーで少しずつ記載します。これから数年間(だと思います)の赴任生活で、認識はもっともっと変わるでしょう。今から楽しみです。

さて、株式や債券に投資する仕事に携わっていたことで、市場や経済を見る際、ほとんどすべてのことを数字に置き換えることが習慣になっています。そこで以下では、私のインド経済に関する理解を、ザックリとまとめようと思います。少々長いので、エントリーは今回と次回に分けることにします。なお、以下の記述にあたっては、経済産業省のサイトジェトロのサイトなどを参考にしています。


インド経済(1)


12億人とも13億人とも言われる人口を擁し、「アジアで3番目の経済大国」と本人たちも胸を張るインド。しかし、世界経済あるいは世界金融市場の中での地位は、少なくとも現時点で、決して優位に立っているとは言えません。

人口ピラミッドが先進国や工業国化した後の中国とは異なり、比較的きれいなピラミッドを保っているため、経済発展に伴った労働力供給や、拡大する中間層の旺盛な消費意欲、すなわち市場という意味で、たいへん魅力的であることは疑いの余地がありません。ところが、どんなに豊富な労働力人口を抱えていようとも、残念ながらそれを吸収する産業基盤が無い

まったく無いということではなくて、利用可能な労働力に対して資本の投下がまだまだ足りない。メディアにもよく取り上げられるソフトウェア産業のように、局所的に「輸出」可能な 財・サービスはあるものの、国全体として労働人口の大きな部分が農村部に張り付いたままになっていることは否定できません。「モンスーン経済」とも呼ばれ、降水量と株価が連動するとも言われます。

インドで英語が使える一定以上の労働者層にとって、英語圏の他の国々で就労可能なのはアドバンテージで、実際、国外所得の国内への送金を示す経常移転収支は貿易赤字を半分ほど埋め、経常収支の安定に寄与しています。これはフィリピンなど国外への出稼ぎ労働者が多い国々と似た構造です。

しかし、大規模な経常移転黒字は、外貨を獲得できるような優秀な人材を吸収するだけの産業基盤が国内に存在しないことの裏返しでもあります。では産業構造がどうなっているかというと、貿易収支の観点からはとてもシンプルで、石油を輸入して(その輸入額よりも小額の)石油加工製品を輸出する。故に貿易収支は常に赤字。以上です。

IT産業は?ソフトウェア産業は?英語圏向けサービス産業は?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。それらはサービス産業や個別企業の成長率を見るならもちろん重要で、実際、経常移転収支と同規模の黒字を、サービス収支も獲得しています。でも、国民経済全体から見るとボリュームが足りない。サービス産業で外貨を獲得したところで、それ以上に石油に払ってしまっている状態です。

加えて、インドは高インフレ国。足下で多少落ち着く気配はありますが、ここ数年10%内外で推移しています。特に、輸入に頼る石油がインフレ動向を握っていて、原油価格が高騰したりルピーが下落すると、たちまちコストプッシュ型のインフレとなります。また、インフラ投資(輸送や貯蔵設備)の遅れから、農村部や低所得層の需要に供給が追いつかないこともインフレの一因と言われています。

実はインフレ問題≒石油価格上昇は政治問題でもあり、石油の輸入価格が上昇した場合は政府は補助金により国民の不満に答えるのが常態化しています。これは経済政策というより社会政策で、政体は民主主義でありながら社会主義的色彩が強い政策です。結果的に財政赤字の要因となっています。

(次回は、以上の理解を元に、為替や金利、さらに、望まれる経済政策についても記載します)



本日の一枚

ムンバイ南部にある世界遺産、チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅(旧ビクトリア駅、1881年建造)。壮麗なヴェネチアゴシック様式。なのですが、駅なのに改札というものがなく、駅舎の中は切符を求める人、電車を乗り降りする人、床に車座になって食事する人々などが入り交じってほとんどカオス。プラットホームに入場するには5ルピー必要です。