2016年2月16日火曜日

【読書メモ】空海、課金システム、言語ゲーム、レザボア・ドッグス

空海/髙村薫(2015)



昨年の本です。読みながら散発的に頭に浮かんだことをメモしました。ほぼ空海と関係ありません。

文化庁の宗教年鑑によると、全国の仏教系信者数は約8千7百万人だそうです。対して、神道系信者数は約9千1百万人。合計したら日本の総人口を軽く超えてしまいます。神仏習合の結果、日本人の大半が「どこかの神社の氏子、かつ、どこかの寺の檀家」となっていることが、統計からもわかります。私の実家も浄土宗の檀家ですが、神社に至っては、何系統の氏子かすら知りません。たぶん伊勢神宮(神社本庁)系統でしょう。初詣には、だいたい毎年、家族で近所の氏神様にお参りします。葬式には坊さんが来ます。

これは、「たぶん」「だいたい」などという、いい加減な宗教態度をとっている人間がこの読書メモを書いているんだ、というお断りです。宗教は絡まれると後がめんどくさいからね。もっとも、その「いい加減な宗教態度」が標準的日本人の特徴であると確信しているからこそ、こういったメモも書けるのですが。


課金システム

いきなり空海から脱線しますが、この「いい加減さ」を経済的に上手いこと利用してる例が伊勢神宮(神社本庁)だと思ったんですね。よそ者として都会で暮らしていていると忘れがちですが、自治会組織が維持されている地域なら、自治会費の集金が月単位であるはずです。その中の一部、たぶん額にしたら一世帯でせいぜい数百円とかが、地域の氏神様を運営する主体を経由して、最終的に伊勢神宮への「上納金」に仕上がる。なんのことはない、「みかじめ料」、あるいは「ショバ代」なわけですが、あれほどナチュラルに地域生活に溶け込んだ集金マシーンを他に知りません。税金と違って法の強制力なんて何もないんですよ。でも多くの世帯が払う。「何に」お金を払ってるか分かっていない方も多いことでしょう。日本全国でいったどれほどのアガリがあるのか。銀行や証券会社の宗教法人担当でその筋にお詳しい方、RSVP。いや、冗談です。

この仕組みがけしからんということではなくて、宗教法人にお金を吸い上げるなら、何だかわからないまま少額を継続的に、かつ広い裾野から集金できる自治会費方式が、課金システムとして最強だということを指摘しました。そしてこの課金システムに組み込まれているサイレント・マジョリティこそ、この国の真の保守層とほぼイコールなのだろうと。自治会の成り立ちは、高度成長期のベッドタウンなのか、隣組なのか、あるいは庚申講宗門改めまで遡れるのか、起源はなんでもいいです。大切なのは、地域の基層をなす人々が、動機はさておき自発的にお金を納め続けているという事実。人口が東京に一極集中する21世紀でも、この課金システムが維持されているという事実。真の保守とは自分が保守である自覚すらない、このような課金システムに組み込まれている人々のことを言うのでしょう。

そういう意味では、コリアタウンあたりでヘイトスピーチを垂れ流してる自称右翼なんて、ちっとも保守ではないですね。彼らの何割が自治会費を通じてみかじめ料を納めることの重さを理解しているのか。地元の成人式で暴れて、パチ屋に朝から行列してるヤンキーの方がなんぼか保守ですよ。いずれ歳を取り地縁の中に吸収され、親から代替わりして自治会費を納めるようになる(たぶん)。現在の形での神社本庁の課金システムに、それほど歴史があるとは思えませんが、課金システムの存続を担保しているのは、氏子かつ檀家といういい加減な宗教的態度をとりつつ、同時に無意識な保守性も持っている、地域の基層をなす人々だった、というお話でした。ヤンキー最強伝説。と言いつつ、私も実家を出てから20年以上、自治会組織にお金を納めたことはなかったです。えらいすんません。

「空海」の中で髙村さんが徹底していたのは、空海以前から存在し、空海が生きた時代にも存在し、そして空海入滅後にも存在した、この国の基層をなす人々に考えを巡らすこと。つまり、日本人の国民性を考えること。描かれているのは、いかなる政治勢力が支配的であろうとも、いかなる宗教・宗派が流行しようとも、基層をなす人々が支配や信仰を生活の中に受け入れた様子。そういう視点で読むと、空海の物語とは別の面白さが本書にはあると思います。ただ、髙村さんは「だから日本人はこういう国民性なんだ」という結論は最後まで示してくれません。それどころか、「千二百年前の日本人は、一言で言えば今日とはかけ離れた常識や価値観、世界観をもって暮らしていたのであり、私たちのものの見方では測れないと考えた方がよい。」とある種、現代との断絶を主張します。

それは違う、と思いました。あなたが本書の中で手繰り寄せ、綴っているそれが、日本人の国民性であり、常識・価値観・世界観の集合体そのものじゃないか、と。ほんとうに断絶しているなら、文化や歴史として何も残らず、「最初から存在しなかったこと」にされてしまったはずなんですね。しかし、様式は変化しているかもしれないけれど、初詣も葬式も課金システムも、現代も有効に機能している事実がある。それらの機能の末端に無意識的にでも関わっているならば、歴史という時間の連続体の末端においても、常識・価値観・世界観レヴェルで緩やかに連なっている、と考えるのが自然だと思うのです。

しかし髙村さんは積極的にそこを明らかにしてくれていないので、 現代人の中にあるかもしれない空海の時代から連続する何か、を求めながら読むと、本書はやや肩すかしを食うと思います。本書がウェブ連載を元にしていることが原因かもしれませんが、オウム真理教信者の後日談やハンセン病患者の方々の信仰に言及する章が突然現れて、すごくブツ切り感を感じました。それ自体はとても内容のある章なのですが、空海の現代に連なる物語の末端に位置付けるには、個別性が強すぎる。

逆に、歴史という連続体の中で、特に「地域の基層をなす」現代人の意識に、空海が何を残したのか探ることは、読者に残された宿題ということでいいのかな、とも思います。髙村さんが何度もキーワードとして挙げている、密教的な身体感覚を読者は求められているのかもしれません。「考えるな、感じろ」と・笑


言語ゲーム

宗教には教義がある。では、その教義はどのようにもたらされたのか。本書では原初仏教の教義ではなく、空海=真言宗の教義が成立する土台として、仏教以前に心と体が不分離である身体感覚が、日本人に元々備わっていることを指摘しています。苦行により特別な霊力を得られるという、修験道的な身体感覚ですね。滝に打たれたりするやつ。個人の身体感覚であるがゆえ、他人が追体験することも、本人が言葉で言い表すこともできない。言葉にできないけれども、修行の結果、神秘的な体験をしたことは事実であると。しかも、そのような体験が存在するということについて、体験しようがしまいが、 空海と空海以外の人間の間に共通理解がある。

で、これ何かに似てるなぁと考えて思いついたのは、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム。後期ウィトゲンシュタインでいいんですかね。「語りえず、示される」というやつ。哲学方面にまったく素養がないので、素人の戯言と思ったら読み飛ばしてください。神秘的体験というと宗教がかってきますが、滝に打たれたりしなくても、なんらかの体験が個人にしか帰属しないのは当たり前です。そして「悟り」もまた個人的体験。仏教では宗派によらず悟りがひとつの到達点なので、 「個人が何をすれば悟りの境地に至るか」は大問題なわけですが、空海がすごかったのは、悟りを開くまで途方もない時間が必要としていた当時主流の顕教に対し、「密教では、いま生きているままで悟りが開ける」、すなわち「即身成仏」を、あの手この手で言い切ってしまったところです。

これのどこが言語ゲームかというと、 「A.理屈で言い表せない超自然的な感覚=神秘的体験が存在する」、という文化的共通理解を前提として、「B.身体体験によって世界の発生原理と体系を明らかにできる=悟りに到達できる」という二階建てのBの部分です。Aについて、「それはアニミズム的感覚ですね」とか「そのような慣習を生きているんですね」というような解説を外側から与えることはできません。なぜならば、Bという言語ゲームの主体=空海や空海に教えを乞う当時の人々が、アニミズムや慣習の存在を意識しないことこそが、Bで用いられる言葉の用法や慣用、つまり言語ゲームの規則を初めて成立させるからです。逆に言えば、自らが拠って立つ文化・社会的背景や慣習を外側から眺める視点を持った瞬間、Bの言語ゲーム、すなわち、密教的悟りに到達することは困難になる、というのが私の理解です。AとBをつなぐ「という文化的共通理解を前提として」の部分は、Bの言語ゲームを成立させるためには、「語りえない」ものでなくてはならない。

正直に言うと、空海(真言宗)の教義にそれほど興味があるわけではないです。髙村さんの「空海」も、前半で多くのページを割いている教義部分は斜め読みでした。ただ、空海がたどった道筋を、千年以上後の、しかも仏教となんの関わりもないオーストリアの哲学者が考えた枠組みで捉えることができるのは、純粋に面白いなと。

日本だけでなく、密教が発達した地域では、程度の差はあっても、仏教以前に自然信仰や呪術信仰がすでに支配的だったのだと思います。 空海はその土台に、本人も意識することなく、上手いこと乗っかった世紀のプロモーターだったのではないか、というのが本書を読んだ私の見立てです。


レザボア・ドッグス

クエンテイン・タランティーノは、90年代映画界で、疑いようもなくひとつの革命でした。少なくとも私の周りでは、「タランティーノを知ってる俺わかってる」という風潮ができあがっていた。タランティーノを世に知らしめたのは『レザボア・ドッグス』。その主題歌がこちら、ジョージ・ベイカー『リトル・グリーン・バッグ』。




レザボア・ドッグス以外でも、テレビCMに使われたりして、耳に残っている方もいると思います。オリジナルは1969年で、欧米のチャートで上位入りしたようです。でもね、タランティーノがレザボア・ドッグスに使わなかったら、日本でこの曲を知ってる人ってそんなに多くなかったんじゃないかと思うんですね。ジョージ・ベイカーのwikiによると、日本国内での使用はすべてレザボア・ドッグスより後なので、当時レザボア・ドッグスに衝撃を受けつつ、「あ、この曲いい」と思った広告代理店や番組制作会社の方が、後になって使ったんじゃないか、という推測。そんなことを、髙村さんの「空海」を読みながらふと思いました。

ここで指摘したいアナロジーは、空海がタランティーノで、密教がリトル・グリーン・バッグという見立てです。欧米ではそこそこ知られた楽曲も、タランティーノがいなかったら日本で多くの人の耳に入ることはなかった。同様に、大陸ではそこそこ知られた密教も、キュレーター空海が西安で恵果に出会わなかったら、その後の日本で隆盛を誇ることはなかった。最初に思い浮かんだのが、「もしもタランティーノがリトル・グリーン・バッグをレザボア・ドッグスに使わなかったら」、というパラレルワールドだったというだけで、同じ文脈で、「もしもエリック・クラプトンがチェンジ・ザ・ワールドをカバーしなかったら」、とかね。まあ、具体的なアナロジーはなんでもいいです。

情報が飽和したたインターネット時代の現代と違い、平安期、あるいは唐の時代に、質の高いコンテンツと巨大な才能が出会える確率ってすごく低かったと思うんですね。空海がいなくても、いつかは密教って日本に伝わったのかもしれないけれど、川崎大師も西新井大師も成田山新勝寺も存在しないその後の日本は、ちょっと想像しにくい。人口や情報の密度が薄い状態での条件分岐って、その後のパラレルワールドの隙間がものすごく広く感じられます。というのが、キュレーターとしての空海の役割に着目した時の感想でした。

その他、着目の仕方によって、空海のいろんな姿が捉えられていて、この本はいいなと思いました。例えば以下のような感じです:

グレート・パフォーマー
宮中で短期間での栄達を可能にした国家鎮護のための加持祈祷。人々の面前で 壮麗な手つきで護摩を焚き、その名人芸で人々を魅了した、というのが髙村さんの見立て。その場限りのライヴ感覚とも言えると思います。

ディベーター・政治家・官僚
真言密教の優位性を確立するための周到な根回しと仕掛け作り、いま風に言うなら、マウンティングが実に上手い。身体体験を手掛かりに、真言密教が仏教他宗派の「上位互換」であることを宣言する。このあたり、ユダヤ教とキリスト教の弱点を見切ってイスラム教を打ち立てたムハンマドの戦略にも通じると思いました。偉大な宗教家の共通点は弁が立つこと。

プロモーター・マーケター
空海が多用した曼荼羅は、密教に必須の儀礼をパッケージにして「見える化 」した優れたマーケティングツール。五感、特に視覚に訴えることは大衆教化に効果的。さらに、教義が大衆には難解であると思えば、噛み砕いたお伽噺も辞さない柔軟な姿勢。このあたりはプロモーター空海の、マーケティング対象に向き合う際の徹底したプラグマティズムと捉えることができると思います。

あと、「コンテンツとしての空海」というのもあります。空海の足跡に由来する寺社は東日本にも多いですが、残念ながら史実ではない。でも、そう信じることに当時から意味と価値があった。空海というブランドを使えば、橋を架けたり井戸を掘る資金がお布施という名で集まる。つまり、国家財政がひっ迫している時には、サプライサイドのファイナンス要請にも引っ張り出せる便利コンテンツが空海だった、と言えます。西新井大師の「弘法大師が掘った井戸」なんかは、「空海の名の下に集めた資金で実施した公共事業で掘った井戸」というのが近いんじゃないでしょうか。

以上は、髙村さんがそう書いているのではなくて、髙村さんが描く空海像を読んで感じた、現代に置き換えたらこういう機能なんだろうな、という私の解釈でした。


おわりに

まだメモしたいことはあるのですが、だらだらしてしまうのでここで切ります。空海の死後、真言宗は天台宗や念仏宗にあっさり主流を奪われたあたり、オーナー社長の後継者育成は大事だよね、とか、鉄鼠の檻で殺人事件の鍵になる日本に存在しないはずの漸悟禅の宗派は空海に由来するんだったなとか。まあでも、一番書きたかった言語ゲームのところは書けたからいいや。

悟りを得ると謂わば日頃なかりつるかと覚ゆ。悟り来たれりと言わば日頃いずこありけるぞと覚ゆ。悟りになれりと謂わば悟りに始めありきと覚ゆ。

 らしいです。(了)

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